カメラを前に指揮する映画監督の市川崑

連載・東京オリンピックと「コカ・コーラ」第1回 映画『東京オリンピック』が写したものと映したもの

カメラをのぞく映画監督の市川崑と連載を紹介するコピーテキスト

コカ・コーラ社は1928年のアムステルダム大会以来、オリンピックのワールドワイドパートナーとして各大会をサポート、もちろん1964年の東京大会もサポートしました。

3年後の2020年でも、さまざまな形で大会をサポートしていきます。

そこで、1964年大会に関わった方々への取材をもとに当時の記憶をたどり、2020年大会へと繋がる“何か”を探していく新連載「東京オリンピックと『コカ・コーラ』」をスタートいたします。

第1回は、ドキュメンタリー映画『東京オリンピック』にまつわるエピソードを振り返ります。

文=野地秩嘉

日本ドキュメンタリー映画史上ナンバーワン

映画監督の市川崑は三島由紀夫の『金閣寺』を原作にした『炎上』をはじめ、『ビルマの竪琴』『おとうと』『犬神家の一族』などで知られる。その彼が初めて挑んだドキュメンタリーが記録映画『東京オリンピック』だった。

 同映画の封切りは東京オリンピックが閉幕した後の1965年3月20日。封切り後から半年の間に1,960万1,000人(うち学校動員1,186万人)という観客を集め、この記録は宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』(2001年公開/2,350万人動員)が抜くまで、長い間、日本映画の観客動員数では第1位だった。

 国家的規模で製作された映画だったこともあり、スタッフの数、使用したカメラの数も多かった。スタッフは総勢556名。カメラマンには黒澤明の『羅生門』などを撮った名手、宮川一夫をはじめとして、スポーツ映画のカメラマンたち、作家の安岡正太郎などが参加している。脚本には詩人の谷川俊太郎、市川の妻の和田夏十、音楽は黛敏郎、美術は亀倉雄策。当時のクリエイターのドリームチームだった。使用したカメラの数は103台、レンズは232本、撮影フィルムの長さは40万フィート、録音テープの長さが6万5,000メートル。これほど大勢がかかわる映画は二度とつくることはできないだろう。

何台も並んだカメラ

 脚本を書いた谷川俊太郎は「スポーツドキュメンタリーとしては新鮮な映画だった」と振り返っている。

 「(市川)崑さんは、まったくのスポーツ音痴なんです。陸上の100メートル競走のことをずっと『かけっこ』って呼んでました。『谷川くん、かけっこには大勢のキャメラマンを配置しないといかんね』とか。公開した後、評論家たちは『なんとも新鮮な感覚のスポーツ映画』と評したのですが、それは当たり前だと思います。僕も含めてシナリオを描いた人間や崑さんはスポーツにさほど関心がなかったのだから」

 市川はスポーツそのものに興味はなかった。だが、当初から「スポーツそのものではなく、スポーツをする人間を描く」と決めていた。彼の関心は人間そのものにあったと言えよう。助監督だった亀田佐(たすく)は市川の言葉をよく覚えている。

 「市川さんに劇映画とドキュメンタリーの違いをお訊ねしました。すると、こうおっしゃいました。『劇映画は役者を演出する。ドキュメンタリーは場を演出する』。劇映画はアクションを撮るものだけれど、ドキュメンタリーはリアクションを撮る。つまり、ドキュメンタリー映画では選手を動かすことはできません。ですから、選手が走る前の緊張感、走った後の安堵した表情を撮ることが大事になってくる」

 かつて市川が亀田に語ったこととは、今でも通用するドキュメンタリー映画のコンセプトだと言える。

カメラを前に指揮する映画監督の市川崑

力走するアベベ

記録映画『東京オリンピック』のハイライトはマラソンのシーンだ。前回大会のローマオリンピックで優勝したエチオピアのアベベ・ビキラが2時間12分11秒2の世界新記録で連覇している。

 アベベは折り返し地点に行きつく前の18キロ付近から飛び出し、独走してそのまま旧国立競技場に戻ってきた。ライバルのいない独走状態だったのである。記録映画の撮影スタッフはNHKテレビ、ラジオ中継車と一緒にマラソンを撮影したのだが、当時の撮影車やオートバイは、Uターンやバックをして選手に近づいて撮ることができなかった。車が背走してくると、選手たちがスピードをゆるめてしまうおそれがあり、撮影車は前方を走るのみだったのである。今でもそういうルールを重んじているマラソンもあるけれど、機器が発達したから、ドローンで上空から写したり、チェックポイントにカメラを多数、設置したりして、画面が単調にならないよう工夫をしている。

 さて、アベベは独走した。すると、どの撮影隊も正面から彼を写すしかない。映画スタッフはまだ幸せだったけれど、史上初のオリンピックマラソン完全中継をうたったNHKは1時間以上もアベベの顔と姿を映すしかなかった。記録映画においても、アベベが主役のようになってしまったのはこの時、彼が独走したからであり、もし、ゴール前でデッドヒートになっていたら、映画の印象はまた違ったものになっていただろう。

 ただ、アベベの力走は多くの日本人を感動させた。作曲家の黛敏郎は「哲学者のようなアベベの表情は映画の歴史に残るカット」と言っている。

 また、当時、選手村の料理長を務めていた帝国ホテルのシェフ、村上信夫もまた「感動しました」と言っている。

「私はテレビを見ながら、日本選手よりもアベベを応援しました。映画を見に行った時もアベベのシーンがいちばんいいと思った。なんといっても、私はアベベとローマオリンピックの時に会っています。あの時もアベベは優勝しました。それでね、アベベは『コカ・コーラ』が大好きなんですよ。選手村に食事に来た帰り、私はいつも彼に『コカ・コーラ』を持たせていました」

 アベベはゴールした後も、ちっとも疲れている風ではなかった。テープを切った後、すぐにフィールドで整理体操を始めた。3位の円谷幸吉が苦しそうにへたり込んだのとは対照的で、アベベは淡々と体操し、後に「あと10キロは走ることができた」とインタビューに答えている。当時、小学校1年生だったわたし自身、アベベという選手の名前を覚えたのはゴール直後の体操シーンだ。すでに半世紀が過ぎたけれど、マラソン中継のゴールシーンを見るたびに、アベベの姿が頭に浮かんでくる。彼は42.195キロを散歩するように走っていた。

「コカ・コーラ」とオリンピック

東京オリンピックのマラソンで優勝した日の夜、アベベはいつもと同じように自転車に乗って食堂にあらわれた。料理長の村上が「おめでとうございます」とあいさつしたところ、彼は静かに頷いた。村上が「『コカ・コーラ』はいかがですか」と訊ねたら「イエス」と答えた。そして、1本を大切そうに、ゆっくりと飲み干す。いつも村上は帰りに1本の「コカ・コーラ」をお土産にして渡していたが、その夜は優勝のお祝いとして半ダースをサービスした。

 「ありがとう」と言い、アベベは「コカ・コーラ」を手に提げたまま、自転車に乗ってゆらゆらと揺れながら宿舎に帰っていった。村上が見たところ、アベベは少しも疲れた様子ではなかった。

 同映画は170分の大作だ。市川が当初から狙った通り、さまざまな競技を扱ってはいても、スポーツ記録だけを撮ったものではない。東京の建設シーン、聖火ランナーが広島を走るシーン、一人の無名選手が東京の町を歩くシーンなど、さまざまなフラグメンツが集まった映像の散文ともいえる。なかに選手村の食事風景が出てくるのだが、テーブルの上には「コカ・コーラ」がある。「コカ・コーラ」に観客の目が行くように撮影している。わたしは市川監督に「どうしてですか?」と聞いたことがあるけれど、監督は短く、こう言った。

「だって、『コカ・コーラ』は昔からオリンピックのスポンサーなんでしょう」

・取材協力(敬称略/五十音順)
市川崑、亀倉雄策、亀田佐、谷川俊太郎、黛敏郎、宮川和夫、村上信夫

・参考文献
『市川崑』キネマ旬報社編(キネマ旬報社)
『キャメラマン一代』宮川一夫(PHP)

・写真提供
東宝株式会社
東宝マーケティング株式会社

・作品情報

1964年東京オリンピックのDVDジャケット

『東京オリンピック』

総監修:市川崑
脚本:和田夏十/白坂依志夫/谷川俊太郎/市川崑
企画・監修:オリンピック東京大会組織委員会
製作:東京オリンピック映画協会

<著者プロフィール>
のじ・つねよし / 1957年東京生まれ。早稲田大学卒業。出版社勤務などを経てノンフィクション作家に。著書に『キャンティ物語』『食の達人達』『高倉健インタヴューズ』『プロフェッショナルサービスマン』などがある。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。

連載・東京1964オリンピックと「コカ・コーラ」